
この世界の構造
この世界はストーリーでできている
この世界には、時間軸が存在し、非可逆的なものとして時間が存在しているというのが、大前提である。ヒトは生まれ、限られた年月を生き、そして死んでいく。この順番がひっくり返ることはない。
その大前提を踏まえたうえで、時間の流れに、私たち生物に可能な認識というものを加えると、ストーリー(物語)という流れが出来上がる。ヒトの人生も、ストーリーで語ることが可能だ。
事実として語られるストーリーも、フィクションとして語られるストーリーも、等しく実に自由なもので、無数に作れてしまうものである。他の記事で前述してきたように、人類史を考察するにしても、視点・着眼点を少し変えるだけで、全然違うストーリーが量産できてしまうわけである。そして、この無数のストーリーの中で、私たちは生きているのである。人類のストーリー、国のストーリー、あなたのストーリー、私のストーリー。すべてはストーリーで、その全ては自由自在なのだ。だから、自分のストーリーは自分が生きやすい、信じ込んでいたいストーリーを持っていれば十分だし、人生のストーリーを他の人がイメージするあなたのストーリーに合わせる必要はないのである。
正確に言えば、ヒトの認識というのはそう時系列にはできていないが、それを整理して語るというのは、人類社会ではごく当たり前なことである。事実などないという話を以前の記事に書いたが、全てはフィクションで、全てはストーリーなのである。
この世界の全ては集約され結実している
私たちは一人一人、身体というものをもって結実している。身体と外界との間で絶えず何らかのやり取りをしているとしても、一応見て、触れる程度にはっきりとした外界との境界を持っている。そして、生命の核とも言える心臓を身体の中心と考えることもできる。別に丹田を中心と考えてもいいわけだけど。私たちには形があって、それをはっきりと見たり触ったりして認識することが可能なのだ。
この世界には、私たちの目には見えない存在もある。微生物とか、素粒子とか。でも、それらも顕微鏡を通してみることで、形を持ったものとして存在していることがわかる。
目に見えるものでも、生物として認識しづらいこともあるが、少なくとも何らかの形をもって結実しているという点においては、切り取られたけど生きている木の枝やトカゲのしっぽも共通である。
この世界の全ての存在には形があるのだ。まあ考えてみれば当たり前で、そうでなければ、私たちに認識できるものがなくなってしまうわけだから、存在を認識する手段として、境界線・形をもって存在しているのはごく自然なことなのだ。何もないように見える空間でさえ、様々な粒子や生物で埋め尽くされているのがこの世界だ。
そして、私たちの身体は細胞や微生物の集合体と捉えることも可能だ。つまり、マクロ的に身体という形も持っているし、ミクロ的にも、形を持ったものの集合というわけだ。
ミクロとマクロは錯綜する
私の考えでは、ミクロとマクロというのは実に紙一重である。ミクロで言えることは、大抵マクロにも当てはまり、逆もまたしかりなのである。微生物に当てはまることは自分にも当てはまり、地球にも当てはまることなのだ。
自分の真理の見つけ方
私は、この世界の全てが結実していると思うに至って、自分の真理を見つけようという時に、この考えを応用した。この世界には膨大な情報があふれているわけだが、それらを浴びるように接し続けることで、自分の真実の形として、何かしらが結実してくることを信じたわけである。あらゆる物体や生物が形を持っているように、惑星が球体として結実しているように。

知識というのは単独の点で、それ一つでは何の真理も得ようがない。知識を積み上げても、1+1+…という足し算、直線にしかならない。ここから真理を得るためには、膨大な点の集合体として自分の中で球体を成すまで(まるで細胞や微生物の集合体が私たちの身体を構成するように)、時間をかけて情報を浴び、その情報を消化する作業が必要になるのだ。よく1をもって10を知るということが言われていて、それができる人は頭が良くてすごいなと思うわけだが、真理を手に入れるには、100をもって1を知るといった方法が必要だと私は思うのだ。
以前の記事で、事実はなく、正しいこともないと語った。事実であるということと事実でないということは、実はどうとでも言えてしまうことで、同じことなのだ。正しいことと正しくないことも、どうとでも言えてしまうことで、同じことなのだ。言葉のあやと言ってしまえば、それだけのことなのだ。
この世界の全てが結実していると考えたとき、例えば惑星のような球体をイメージした時、表と裏は一体で一つのものをなしている。全ては表裏一体で紙一重で同じことなのだ。ただそれをどこから見るかという視点があるだけなのだ。自分の真理を見つけようという時には、あらゆる視点を取り込んで、惑星の形に結実するイメージを持つと良いかもしれない。
そして、ミクロとマクロを行き来しながらいろいろ考えを巡らせた。環境にとって正しいことが、結局自分にとって正しいことなのではないだろうかと。この思考法は、自分の真理を見つけるのに非常に役に立つので、ぜひやってみてほしい。もっと大きい規模で考えたときにも正しいだろうか、もっと小さい規模で考えたときにも正しいだろうかと思考を行き来させてみよう。
おまけ
最後に、参考として、私が健康法や食事法について情報を浴びまくって見つけた私なりの真理というやつを書き出してみようと思う。
・身体のすることはすべて正しい
これは価値判断である。そういう立場に立って私は考えるようにしたということである。西洋医学では、身体が間違ってしまっているから、症状を押さえましょうね、ということになるのだが、そうではない考え方に触れるうち、私の真理としてはこのような結論に至った。(まあいつも言っているように、どの立場をとるかだけの問題で、身体が正しいかそうでないかというのは紙一重というか、同じも言えるのだが。)つまり全ての症状というのは、アレルギー反応も、がんに対する体の反応でさえ、すべからく正しいものなのであって、何一つ間違いはないのである。東洋医学では、時に症状をますます促進させるという治療法がある。かゆいならかきまくって外に出すのを手伝ってあげましょう、とか。熱が上がってきたら冷やすのはご法度だとか。なかなか辛くてつい西洋医学のお医者さんのもとを訪れてしまうものだけど。がんの場合問題なのは、その異常な増殖スピードである。私は既存の西洋医学のがん治療には疑問を持っている。まあその話はいいのだが、身体の免疫を段違いに活性化させないと、根絶には至れないというところががんは恐ろしいのである。
まあ偉そうに語ってはみたものの、結局私も思いっきり西洋医学の世話になって生きている。自分の考えを貫きすぎた結果、死にかけたのだ。価値判断の全てを生き方に反映するのは難しいことかもしれないが、自分の考えが変わると、世界の見え方が変わる。生き方が変わる。
・環境にやさしいは自分にやさしい
私たちは微生物の集合体である。そう考えると、殺菌・抗菌神話がはびこるこの世界に疑問符を持つことになる。殺菌・抗菌で何をしているのだろうか?自分たちを殺しているのである。お前は食中毒で死ねというのか!と激昂する人がいるかもしれない。実は、日本で有名なO157の逸話として聞いたのだが、食中毒で死ぬのは、慌てて殺そうと対処しようとしたからだとも言われている。何もしなかった人たちは助かったのだとか。本当か否かは知らないが。自分の腸内細菌叢が豊かな人は、たぶん食中毒になったりしないし、なったとしても回復するのである。だから、あくまで私の考えだが、細菌をそんなに恐れる必要はないのである。というか、あなたも細菌の塊でしょうが!細菌なしで人間は生きていけません。それよりも豊かな細菌叢を構築する方に注力すべきだと私は思うのでありました。
また、こう考えることもできます。私たちの身体は、豊かな細菌叢を培うための土壌なのだと。特にその役割を果たすのが腸だと言われています。私たちの身体は、地球そのものを内包しているのです。私たちは一人一人、内なる地球を持っているのです。ミクロとマクロは深くつながっているのです。

これは余談ですが、私たちは地球の一部ともいえるわけで、ミクロとマクロが錯綜するのであれば、私たちの意思は地球の意思でもあるのです。まあ自然から自分たちを隔離してしまっている今の人類がどれぐらい地球の意思を反映しているのか疑わしい部分もありますが、本来ならば、ということですね。もちろん、人間以外の生物も同じです。彼らの存在は地球の意思そのものであり、地球の意思を体現する存在でもあり、彼らの意思は地球の意思でもあるのです。
さて、「環境にやさしい」は「微生物にやさしい」で「私たち自身にやさしい」、というように、世界は巡り、ミクロとマクロは錯綜するのです。洗剤やせっけんを使うのを極力やめ、下水に流すのをやめれば、一石二鳥どころではないのです。私は洗濯洗剤や体を洗うシャンプーやボディーソープをやめました。洗濯にはセスキ炭酸ソーダを使い、泡立たないクレイのシャンプーを使い、体はあかすりでこするだけにしました。どうしてもべたべたになった時だけは、ハンドソープを使いますけど。
参考文献
『土と内臓 微生物がつくる世界』(デイビッド・モントゴメリー)
今回の一曲
calling / fhána
アニメ『テイルズ オブ ゼスティリア ザ クロス』エンディング
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