以下の記事は、新たな視点を読者に与える意図で作成しています。事実を保証するものではございませんので、ご承知の上、自己責任でお読みください。
よく語られる人類観(進化の歴史)
人類は進化してきた。多くの人は、このように教わってきたし、このように考えているはずだ。
よく言われている人類が進化してきたという考えの根拠を挙げてみようと思う。
・人類の繁栄
人類は社会を発展させ、繁栄してきた。絶滅の危機に瀕した時期もあったようだが、その後は着実に人口は増え、Wikipediaによれば、世界の人口は、2024年5月19日現在、およそ81億1045万700人である。
・寿命の変化
人類初期の寿命は20~35年ぐらいだったようだ。現代人の寿命は約80年であるから、大幅に増えたことになる。
・農業の発展
人類の発展に大きく寄与したのは、農業の発展だと言われている。これにより人類は定住するようになり、農耕社会を形成し、人口を増やすことに繋がった。
・工業の発展
人類は、何段階かの産業革命を経ながら、工業を発展させてきた。大衆文化などが定着したのもこの頃だ。
・科学技術の発展
産業革命も、第3次と呼ばれるあたりから、科学技術の発展が大きく関わってくることになる。今やPCやスマートフォンなしでは生活が成り立たない。すごいスピードで変化が起こっている。
・学問分野の発展
化学や物理や数学や……。古代ギリシャあたりから人類は学問分野を発達させ、学問体系というものを確立してきた。
考察の前に
以上が、よく語られる人類観をざっと私なりにまとめたものだ。ここからは、考察を深めていきたいと思う。
最初に述べておくが、私は別に、人類を否定したいわけではない。毎日パソコンで講義やYouTubeの動画を観て、音楽を聴いて、スマホで連絡を取り、デパートやスーパーのおかずを食べ、お米を食べ、服を着て、お風呂に入る、普通の人類の一人だ。最新のパソコンやスマホに買い替えて技術の恩恵を受けているし、発達したアニメや音楽の技術のおかげで生きていける(精神的な支えになっている)し、発達した農業や商業のおかげで食べることができるし、お湯のシャワーが出る恵まれた環境で生きることができているし、社会生活を送ることができている。
だけど、この社会にはたくさんの問題があるし、その全てが正しいことで、素晴らしいことなのかということを、例えば恵まれているという理由で、そういう価値判断を決めつけてしまうのは、良くないことだと思うのだ。「2 視点のゼロ地点」では、視点と世界観をテーマにしている。先入観から自分の視点を解き放ち、新たな真理を見つめる目を養い、自分オリジナルの世界観を構築してもらえたら私としてはうれしく思う。
進歩について
そもそも、私たちは時間の経過に沿って発達・発展・前進・進歩しているという思想を抱きがちだが、このような発想自体が、一つの価値観であることに気付いているだろうか。確かに、時間は一方向にしか進まないかもしれないが、それが良い方向に向かっているというのは、希望的観測に過ぎないのだ。現在を生きる私たちが、現在を肯定したくなる心理はわかるが、真理を追究したいのであれば、あらゆる先入観を取り除かなければならない。
学問分野の発展
私たちの多くは学校で勉強をしたことがあるだろう。先人たちが培ってきた知恵や知識を教わるわけである。しかし、学問分野で最初に発見し名付けた人は、知識として身に着けたわけではない。後世を生きる私たちは、テストに出るところを一生懸命覚えたりしなければならないわけだが、昔の人は覚えることに一生懸命になる必要はなかったということである。私たちが学問の基礎を身に着けようとするときに行うことは、自分で見つけたわけではなく、他人がすでに見つけたことを知識としてインプットすることになるわけである。何が言いたいのかというと、知識を覚えることにいったいどれだけの意味があるのかは疑問であるということである。もちろんそれが知識体系をなし、それを知ることで私たちも共通の認識を得ることができるわけであるが、名前なんて誰かと共通認識を持つためでなければなんでもいいわけであるし、名前そのものも誰かが考えたわけで、さして意味はないからである。他人が与えた視点を取り込み、それによって世界を認識していくことになるわけであるが、知識武装で自分を守らない、思考を停止しないことが、私はとても大事だと思う。知識ばかりで考えなしの「バカ」にはなりたくないものだ。
そして、詳しくは後述しようと思うが、知識というのは理解とは別のものである。つまり、学問の体系的には新しい大発見であったとしても、必ずしも昔の人類が馬鹿で、今の人類の方がものを知っていて賢いということにはならないのである。
自分一人の人生にとって必要な範囲というのは、そんなに広くはない。つまり、生きていくのに本当に必要な知識がどれだけあるのだろうか、という話だ。生物である以上、自分が生きていくのに必要な感覚は既に持ち合わせているはずで、例えば自分にとって食べて毒になるものかそうでないのかということぐらいは、昔の人類ならわかっていたのではないだろうか、と私は考えるのである。しかし、その感覚というものが薄れてしまった、自然から離れてしまった人類にとっては、○○という名前の植物には毒があるから食べてはならないということを知識として得るしかないのではないか、と私は考えるのである。例えば、昔の人は現代の人よりも圧倒的に視力がよかったといわれている。同じように、他の感覚器官も衰えていっているのではないか、と考えているわけである。つまり、「感覚を失うにつれ、知識を必要とするようになった」というのが私の人類観のひとつである。そして、現代人は本当に生きるのに必要だろうかなどと思いながら知識を身につけなければならないことになるわけだが、自分の生物としての人生を全うするために必要な範囲の認識で生きていた昔の人類は、決して現代人と比べて劣ってなどいないというのが私の考えだ。だから、学問分野が発展したからと言って、人類が進化したとは言えないのではないか、というのが私の考えだ。
学問体系的発想だと、進化・進歩というのはわりかし語りやすい気がする。良くも悪くも、積み上げ型の思考なのだ。既にある体系が崩れることもあるが、それも含めて、過去の研究や成果の上に、新たな発想や知識を持ち込んで付け加わっていくのが学問の歴史の進み方だからだ。知識体系もどんどん膨らんでいくわけで、後世の人は大変な思いをするかもしれないわけだ。私は、複雑なことは本質ではないと考えている。地球のことも人生もシンプルなことほど本質に近い気がするのだ。いろいろ述べてきたが、複雑なことの中から本質を見抜けたり、知識から考えるヒントを得られることはあるから、学問が無駄で不要とまでは思っていない。積み上げ型の思考も、その全てが悪いとまでは思っていないが、本質に近づくための思考だとは私は考えていない。
どうして知識社会になったのか
私は、自分の感覚・フィーリングから理解する力を人類が失うことになったからだと思う。直接伝承されるという形以外にも、絵や文字という方法で記録が残るようになったのは、人類が後世にと記録を残すようになったのは、古代文明の頃である。日本でも、古い時代は文献なども少なく、記録を残すということ自体がレアケースだったことがうかがえる。
人はなぜ記録を残すようになったのだろう。
私は、知らしめることは本来必要のないことだと思っている。だが、理由を推察するなら、「危機感」だったのではないだろうか。ひょっとしたら伝承をしようとしている人たち本人も無自覚だったかもしれないが。
今でもたくさん研究されている聖書には、様々な健康法のヒントが隠されているのだが、フィーリングを失いつつある人類に、これを残さなくては、と、そういう意図があったのではないかと思うのだ。同じことを、食品文化にも感じる。レシピとして残して、この食材たち、菌たちを(具体的な菌という概念はまだなくとも)、後世に残さねばならないという危機感があったのではないだろうか。そうして先人たちが必死に残してきたものを、我々が知識として記憶しましょう、という話になるというわけだ。本来野生ならゼロから主観で判断しなければならないところを、知識で補っているというわけだ。人類の歴史を見るに、感覚を失えば失うほど、知識に執着することになるようだ。
人があれこれと考えるようになったわけ
哲学など、古代の頃からあれこれと考えたり、観察から知識を得ようとしてきたわけだが、感覚と思考との親和性が薄れつつあったことと関係があるのではないかと個人的には思う。感覚がなければないほど知識や思考に頼らざるを得なくなるのだと思うのだ。私があれこれと考えてしまうのも、感覚の欠如によるものかもしれない。宗教も、同じような流れの中で出てきたものと私はとらえている。人は、自然から離れるにつれて感覚を失い、真理を見失っていった。そして真理を追究する心が生まれた。それが、学問へ、宗教へと形を変えていったものと思われる。
子孫を残すことが生物の本分なのか
私はそうは思わない。本来の生物の営みとしては、環境によって、子孫を残したり残さなかったりしているはずだと思うのだ。種によっては、環境によって共食いすらするのだから。自分たちの種だけ増えればいい、生き残ることが素晴らしいというのが、いかに身勝手な主張かわかっていただけるだろうか。自然の営みはそんな風にはできていないのだ。環境にとって、生態系にとって良いことが、自分たちにとっても良いことであるはずなのだ。
人口が増えることは、寿命が延びることは進化なのか
ということは、もう私の言いたいことは伝わっているかもしれないが、人口が増える(繫栄する)ことは、寿命が延びることは進化で素晴らしいことなのだろうかというと、私はそうは思わない。生態系を崩すような特定の種だけが繁栄するような人口の増え方は自然界では御法度だと思うし、自然のサイクルの中で、死ぬべき時期に死ねるのが本来の生物の望む生き方に思えるからである。
生き残ってはいけなかったのでは?
我々の内の誰が、本当の野生で生きていけるのだろうか。野生でない人間など、本当は生き残ってはならなかったのだと私は思っている。しかしながら、自然から自分たちを隔離しながら、生き残ってこられてしまったのが、今の人類なのだ。そうまでして、この惑星の論理を外れてまで生き残る意味などあったのだろうか。全ての意味を失っただけなのではないだろうか。
私が思う本来の生物の役割
・土地のものを食べ、代謝した残りかす(糞便)を土地に返す
・生態系を維持し、より豊かにする(野焼きの技術を参照)
・環境(種の個体数、食べ物の有無など)によって、子孫を残したり、残さなかったりする
・命を全うし、自然に還る(命を終え、次の命の養分となる)
野焼きの技術
生物の役割の一つとして生態系を維持し、より豊かにするということを挙げたが、人類はこれが得意であった。火を使えるようになった人類は、野焼きをするようになった。野を焼いて、生物を死滅させることが生態系を豊かにするはずがない?実は逆に、死にかけていた植物たちの命を燃やし、若芽を育て、生態系をより豊かにする画期的な技術なのである。カリフォルニア先住民のそのような営みについて、『樹木の恵みと人間の歴史』(ウィリアム・ブライアント・ローガン)という本のp242から始まる章で詳しく語られている。彼らの炎を使った画期的な技術はすっかり禁止されてしまい、生態系は細っていくことになった。日本では、一部の地域で今でも細々と野焼きが行われている。
ダーウィンの進化論の本当の意味
参考サイト:
ダーウィン進化論。生き残るのは「変化できる者」ではなく「運が良かった者」|辺境生物はすごい!|長沼毅 – 幻冬舎plus
多くの人に誤解されているダーウィンが言った「進化」の本当の意味…「進化」という語を最初に使ったのはダーウィンではなかった「驚きの事実」(千葉 聡) | 現代新書 | 講談社(1/3)
進化という考え方を広めるきっかけになったのは、みなさんご存じダーウィンだと思われる。だが、実はそうではないということが上記の記事でも語られている。そして、ダーウィンの唱えた進化論は、なかなか考え方ごと受け入れられはしなかったようで、だいぶ曲解されて伝わることとなった。
最近では、生物は生き残るために進化するのではなく、いろいろな個体の中で、たまたま生き残ったのが、今存在している種だということが言われている。運や偶然によって、生き残っているだけだというのである。
環境の変化に機微に適応した結果として生物に違いが出るとしたダーウィンの進化論は、淘汰と適応の結果としての進化を意味し、優劣ではなく差分を意味し、決して生き残り戦略としての階段状の進歩の意味ではないそうだ。本当は、この地球上の世界は1+1+…で進んでいるわけではないのだ。
ダーウィンの進化論は、啓蒙主義的な、人間をゴールに置いたものではなく、猿などと等価で、分岐に過ぎないとした。優劣の視点を外していた。ダーウィンはまた、人間視点で物事を認識することの間違いも指摘していた。
まとめると、生物学的な意味のおいての進化は前進するという意味ではないということである。人類は生物学的な意味においては特に変わるようなことは起こっておらず、ここで使っている意味における進化は生物学的な進化は意味しておらず、よって特に人類は進化はしていない、ということになりそうである。
私は、自然の全てが正しいと思う
私はすべてを確率論や偶然で片づける考え方には反対だ。確かに一貫した時間軸で進むのが進化ではなくとも、自然には100%意味があり、完璧だと考える。自然の中では、全てが必然なのではないかと考える。淘汰・死すら意味しかないと思う。ある生物においては、一定の条件下では共食いや自死をするものだ。死にも意味があるのが、自然の世界なのだ。私は、死すら、絶滅にすら、本来なら次の土に、別の生き物に、環境に、つながるだけの理由が、意味があるものと考える。淘汰すら適応なのだ。人も本来は、死にすら意味があるのだ。人を殺すことを良しとしても、命の意味が壊れたりは、本当はしない。ただ、本来の人類としての、自然とともにある感覚を失っていることが問題なのだ。私は、自然とともにあったころは、生贄にも意味があったものと考える。自分たちが増えすぎるのを決して良しとしなかった心には感嘆する。
野焼きは、植物が自然に枯れて芽吹くよりもずっと早く、植物を芽吹かせることができた。野焼きも、早めることが人間本位に見えなくはないが、自然に組み込まれて含まれている人間本位と、人間本位は区別すべきだという気がする。自然が考えることと、人が考えることが限りなく一致していたのだから。
農業の発達は進化なのか
人類が人口を増やすことになったカギは農業の発展だと言われている。農業が発展するにつれ、大量の食糧を効率よく調達できるようになり、人口が増えていくことになった。
ご存じの通り、初期の人類は狩猟・採集を行っていた。植物の種は食べられずにその場に捨てられて、そこから芽を出したり、ある程度運ばれてから糞便に混ざって捨てられて芽を出したりしていたものと思われる。こうして生態系の一部を担っていたわけである。ちなみに、現代人は、昔の人が狩りを行っていたイメージがあまりにも強いが、実は狩りをすることは非常に稀だったと言われている。現代に残っている原始的な種族も、メディアの取材のときだけ特別に狩りをしたりしているが、普段は小魚を採ったり、植物を採集している場合が多いそうだ。
古い時代にも、植物の種を自分たちが植えたりすることはあったようだ。しかし、現代のように、遠く離れた土地に突然植えられるようなことはなかっただろう。
また、カリフォルニア先住民の話を本で読んだ限りでは、彼らは自分たちで植える場所を決めて栽培することはせず、肥料を与えて育てることに重点を置いていたようだ。彼らに言わせれば、植物を育てる場所を決めるのは自分たちの役割ではないというのだ。私が考察するに、本来あるべき土地を越えて植物を持ち込み、一所で植物の栽培を行う農業は生態系を変えてしまう、ということなのではないだろうか。
原始的な、自然とともに生きてきた種族の多くは、現代人へとつながる文明の発達によって滅亡していったといわれているわけだが、彼らの文明は現代文明と比べて劣っているのであろうか?優れた文明が現代へと受け継がれて残り、劣った文明が廃れて滅びていったのであろうか?自然も自分たちも豊かに生きようとする彼らの生き方と、自然を犠牲にし、惑星ごと自らを滅ぼしながら進んできた私たちの生き方と、どちらがより賢いのだろう?
これも視点によって立場は変わってしまうわけで、価値観の話なのだが、私の主張では、原始人・原住民の方が賢かったということになる。農業を行うことを拒否し、自然とともに生きる生き方を貫き、廃れていったかつての先住民たちの方が賢かったのではないか、と考えているわけである。そういう人類観で私は生きている。昔の人類は自然の天才だったのだと。そう考えている。
歴史の盲点
よく勝者が歴史に残るから、勝たなくちゃいけない、などという議論があるが、確かに、人類の歴史を見ていても、他の人類を犠牲にしながら発展した大きな文明ほど、しっかりと記録されていて、歴史として語られている印象がある。よく「勝者が正義だ」などと言われているが、私はそうは思わない。むしろ何かを犠牲にしていたりしてひどく身勝手な場合が多いように思う。だが、勝者ばかりが歴史として語られやすいのは、本当のことだと思う。自然を守るような営みを続けた結果、滅ぼされてきた膨大な数の種族について詳しい人が一体どれだけいるだろう。私も全然知らない。
人類が記録を始めた意味について、上記で考察したが、その意味は「危機感」だったと解釈した。勝者が文明を引き継がせるために残した記録というものも、滅びないようにという危機感だったのかもしれないが、正直文明は滅びてきたし、大きな文明社会の危機感には私は共感できないのだが、ともかく、私が言いたいのは、記録として残っているものが全てではないということである。農業を盛んに行った文明の裏で、生態系を変えてしまうような行為など思いつきもしない賢い人々だって、どんな時代でも(現代でさえ!)細々と生きているわけであって、それらの人々が歴史として語られることはほとんど皆無なわけである。
歴史というものも、視点次第で全く別のものに映るわけである。自分なりの視点でもって、自分が思う本当の歴史というやつを見つけてみよう。歴史観・人類観を塗り替えよう。
参考文献
『樹木の恵みと人間の歴史』(ウィリアム・ブライアント・ローガン)
今回の一曲
Shadow and Truth / ONE Ⅲ NOTES (ワンサードノーツ)
アニメ『ACCA(アッカ)13区監察課』オープニング
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